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れんらく帳

2020年9月18日

平和をともにを終えて②

①で5年生の司会がとありましたが、こちらではその内容を書かせていただきたいと思います。

この内容は5年生の思いが詰まった内容です、是非読んでいただけたらと思います。

                                      

 僕たち5年生は「平和をともに」を支え、担う役割をする上で、僕たち自身が平和について考える始めとして、まずは、僕たちの平和学園を作ってくださった賀川豊彦先生のことを知ることにしました。1学期には平和学園にある賀川村島記念資料室を訪れました。そこでは、賀川先生がたくさんの本を書かれていることを知りました。その中で1冊、当時ベストセラーとなった自伝的小説『死線を超えて』をもとにした本をそれぞれが読んで、賀川先生がどんな人だったのか、どんなことをしたのかを学びました。そこから5年生が学んだことをお話します。

 賀川先生は明治末期から大正・昭和に活躍した人です。賀川先生は子どもの頃、結核という病気でした。また、幼い時に両親を亡くしました。賀川先生の生い立ちは決して恵まれたものではありませんでしたが、16才の時に洗礼を受けクリスチャンになりました。そして、悲しみをのりこえて、地域で弱い人のために活動を始めたのです。賀川先生は貧しい人を救うだけではなく、貧しい人を作らないための防貧活動に力を入れました。貧しい人、病気の人、たくさんの弱い立場の人のために生涯を尽くしたのです。その活動ははば広いものでしたが、主なものは次の通りです。

1.労働者の地位の向上のための労働者の会を結成・労働新聞の発行、購買組合を作った。

2.消費者のための協同組合を作り、安くまとめて買う方法を作った。

 今のコープに発展し、食品の安全・安心を確保し、数百件が加盟した。

3.日本の農民を守る農民組合を作り、今の農業協同組合へと発展した。

4.医療のための組合病院を作った。

5.すべての運動を通じて、賀川先生は平和主義で行った。

このように、賀川先生は一生をかけて困っている人の地位の向上のために全力をつくし、自分の身をささげました。賀川先生は「これだ!」と思ったことをすぐに実行します。そして、今、自分がやっていることがとても難しくて、大変なことでも、決してあきらめずに、もっと多くの人を助けるにはどうしたらいいだろうと考え続けました。賀川先生は、できないと簡単にあきらめずに訴え続けました。言葉でいうとたった一言のことですが、なしとげるには、すごく大変だったと思います。そして、それをしなければならないほど、貧しい人がほとんどで、苦しい生活をしなければならない不公平な世の中だったのだと思います。賀川先生は、本も売れてお金持ちにもなれたのに、人々を救うためにお金を使い、つねに弱いものの味方でした。そして日本、世界の平和を祈り、はたらき続けました。力づくで相手を負かすのではなく、どんな時でも愛を持って世の中を変えていきました。

 この賀川先生が、僕たちの平和学園を作られました。5年生が賀川村島記念資料室に行った時に、資料室を管理している土屋洋子先生から、賀川先生が学園の子どもたちに伝えてくれたメッセージを教えてもらいました。

 それは「世の中の雑巾になれ。」という言葉です。この言葉について、僕たちは、クラスのみんなで話し合いました。「雑巾」と聞いて、最初、僕たちは「えっ?何それ?意味がわからない。」と思いました。雑巾はそうじで使います。使う時には水にぬらされ、しぼられます。」そして、使えば使うほど、雑巾は汚れていきます。単純に考えて、雑巾のように汚れるのはいやだし、雑巾のように汚くなりたくないと思いました。汚いのは人に嫌われるし、値打ちがさがると思ったのです。