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平和学園からのお知らせ

2012年2月 3日

聖書と教育実践 第2号  学園長

「かまえ」の基本は、誘惑されたイエスの中

 

ルカによる福音書 4:1~13
 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。


 イエスは、荒れ野の中を霊によって引き回され、40日間、悪魔から誘惑を受けられた。イエスの心境やいかであっただろうか。しかしその時、イエスには『主の存在』のみが脳裏あったと聖句から汲み取れる。ここにイエスの凛とした姿勢が感じられる。その結果、「悪魔は時が来るまでイエスを離れた」と書いてある。凛としたイエスの姿勢に、私達が子どもに対応する時の「かまえ」(心の中に描く凛とした姿勢)の基本がありそうな気がしてならない。

 

2011120702.jpgかまえ

 私は、子どもに対応する時、『このような接し方はしない』『このようなことを留意しながら接する』と、自分がとり続ける姿勢の基本を「かまえ」と呼んでいる。(一般的には、心構え・心組みなどと言われている。)

 

 かまえが曖昧のままで接していると、「人によって接し方を変える人だ」「えこひいき」「気分屋さん」「優柔不断」に思われ、頼りない教師に映ってくる。

 

 私は、『教育とは、意識的・無意識的であろうとも、一人ひとりの子どもを、教え育んでいこうとする方向に進められている営みである』と捉えている。その基本にあるのが学びである。

 

 学ぶとは、学んだその結果、前の自分よりもよりよく変わることである。よりよく変わることに躊躇していたのでは教育は成り立たない。

 

 かまえとは、「自分の心の中に自分自身の確固たる姿勢を決めること」と書いた。ところが、そんなに簡単なものではない。心の中では決め易いが、かまえに沿って実行するとなると、イエスの苦難に比するように、忍耐・我慢・洞察・辛抱・自己否定...、等を乗り越えなければいけない大変なものである。中途半端をよしとする教師には向かない。

 

 しかも「かまえ」は、単独では「頑固・融通性がない」などと捉えられ、効果をあまり発しないものである。私は、効果を発揮するには二つの条件を備えていなければ難しいと思っている。

 

一つ目の条件:
 子ども像(願い・ねらい)を実現していくためのかまえであることが大事である。【教育の目的は、子どもの自立(律)である。自立(律)を目指したかまえであること】

 

二つ目の条件:
 かまえは、心がけだけではだめである。行為が伴わなければならない。具体的な行為の一つひとつを手だてという。かまえに沿った手だてが必要である。

 

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