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れんらくノート

2020年4月23日

日々徒然

最近、後悔したこと。
廊下に落ちていた手裏剣を拾わなかったこと。
どこかに移動していたときに見かけた白い手裏剣。
白と白で組み合わせて作るなんて珍しいなと思いつつ、通り過ぎてしまいました。
その後、ある男の子に「白い手裏剣見なかった?」と声をかけられました。
あの手裏剣はこの子のだったのかと、さっき見かけた場所に行ってみます。
しかし、そこにあったはずの手裏剣は姿を消していました。
その子は仲間と一緒にその手裏剣を探して幼稚園中歩きまわっていました。

ああ、なんてことをしてしまったんだ。
あのときに、ひょいと拾って「これだれの~?」とまではいかなくても、
棚の上に置くとかしておけばよかった。
足を止めて手裏剣を拾うくらい、そのとき余裕でできたはずだったよな。

誰かがやってくれるかな。なんて期待してしまっていたところがあったかもしれない。
これは遊び途中だから置いておいた方がいいのかな?という言い訳めいた思いもあったかもしれない。
大したことないことが、子どもたちの住む世界では大ごとだったりする。
たかが手裏剣、されど手裏剣。

自分のする些細なことが誰かを助けることにつながるかもしれない。
自分のした些細なことが誰かを傷つけることになるかもしれない。
行為だけでなくてことばや態度もそうかもしれない。

幼稚園の中ではたくさんの「かもしれない」が存在する。

ここに、おままごとコーナーを作れば子どもたちが楽しく遊べる"かもしれない"。
この色のおりがみを補充しておかないと、この色が好きなあの子はしょんぼりする"かもしれない"。
この絵本をイーゼルに立てておいたら、あの子たちのあの遊びは発展する"かもしれない"。
隣のクラスが忙しそうにしてる、彼ら彼女らが担うこの場所を掃除しておいてあげたら隣の先生は助かる"かもしれない"。

それらは簡単に言えば想像力というのかもしれない。
私たちは子どもたちの自立(自律)を支えるための想像力をフルに活用して子どもたちの前にいなければならない。
転ばぬ先の杖を差し出すための想像力ではなく、一人ひとりの子どもたちの育ちに必要な手立てを考えるための想像力を。

幼稚園の先生は子どもたちと遊んで身体が疲れるなんていわれる。
もちろん、そういう部分はある。
だけど、本当のプロフェッショナルは多分頭も疲れる。
そして、身体と頭がつかれているのに心が満たされる。
そんな1日の終わりを迎えられたらいい。

もっと、頭を使わなくては。
"かもしれない"を拾い歩いて暮さねば。

園のいたるところにきれいに、お花が生けられています。
華美に飾らずに、だけども生活に彩が与えられて目にも心にもやさしい花。
まだまだ、緑の少ない園庭。どこに花は咲いているのか。どこから連れてきてくれたのか。
誰かの"かもしれない"に支えられ、今日も暮らしています。
ありがとうございます。

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