神の人へのかかわりから、教師の子どもへのかかわりを学ぶ
ヨハネによる福音書 3:16(新167頁)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
本朝は、お読みした聖句から、教師の子どもへのかかわり方を学んでみたいと思います。聖句に分析の手を入れるのは申し訳ないのですが、少々分析して考えてみましょう。
「手立て」「願い」「かまえ」という、三つの要素が浮かび上がってきました。
私の長い間の教師経験から、子ども達とかかわるときに、この「手立て」「願い」「かまえ」という、三つの要素が、とても重要なものであるということに気付きました。
そこで、次のような関係図を作ってみました。
子ども像:「このような子に育てていきたい」「このような学力をつけさせてやりたい」という、子どもへの願いやねらい。
かまえ:子どもにかかわる時、このような接し方はしないと自分の姿勢を決めること。自分自身の心構えをさす。個人に対応する個人差に応じたかまえと、どの子にも同じように対応するかまえの二種類がある。
手立て:子どもに接するとき、具体的に示すものや方法をさす。ただし手だては、教師の描いた子ども像(願いやねらい)を、成就するものでなければならない。
私達人間は、神を幾度となく裏切り罪を重ねてきました。その度、神は心を痛めましたが、こよなく私達を愛し続けてくださいました。ここに神の変わらぬかまえを見出します。そして、ある時は預言者を、ある時は神の御業を・・・・と、救いの御手を差し伸べてくださいました。最後に、独り子であるイエス・キリストまでも・・・・神の救いの御手の凄さ(手立て)を感じます。
ところで私達は、神様のように子どもに対して変わらぬ愛(かまえ)を持ち続け、新しい手だてを出し続けながら、一人ひとりの子ども達とかかわりを持ち続けているでしょうか?