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2021年6月 1日

アレセイア通信2021年6月号

一つの体、多くの部分


 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が「わたしは手ではないから、体の一部ではない」といったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部ではなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。(Ⅰコリント 12章14~20節)

 一人一人の顔も声も異なるように、性格等も異なっています。物事をはっきり言える人、苦手な人と言ったように人さまざまです。

 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前は要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(Ⅰコリント 12章21~26節)

 自分と異なる、違う人とどのようにかかわって行くかが問題です。この先、悲しみのときは共に悲しみ、喜びのときは共に喜べる、共に生きる友達であってほしいと思います。しかし、友達ができるのを求めるだけではなく、自分が誰の友になれるかが問われているのではないでしょうか。

 人間も神様の愛を受けるだけでは、真実な生き方にはなりません。神様から頂いたものをどのように生かしているか、みんなで分け合い、助け合って生きてこそ、真実な生き方だといえるでしょう。そのような生き方を、祈り求めつつ歩んでいきたいと思います。

校長  山田 信幸