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2019年1月 8日

アレセイア通信2019年1月号

食堂「天国屋」と賀川豊彦

 「死線を越えて」は賀川先生が生涯に書かれた300冊以上の著書の中でも、100万部以上売れた大ベストセラー小説です。私達の平和学園も、その印税の一部で創立されました。先生は印税について「神様から預かったもの」だとして、自分のためでなく、社会のために様々な事業を起こす資金とされました。当時の貨幣価値を換算することは難しく、印税を正確に換算できませんが、武藤富男さんの書かれた「評伝 賀川豊彦」(キリスト新聞社 1981年発行)によると10億円以上だと推定されています。

 賀川先生は1912(大正元)年11月、神戸の葺合新川(ふきあいしんかわ)というスラム街の中に食堂「天国屋」を開店しました。本校の生徒は高校1年の修養会で、この「死線を越えて」のDVDを視聴していますので、天国屋での住民の乱暴狼藉の場面を覚えている人がいるのではないでしょうか。しかし、その天国屋はわずか3か月で閉鎖に追い込まれてしまいました。住人の無銭飲食が横行したことが原因だと言われていますが、それだけではなかったようです。スラム街には、もともと安く食事を提供する食堂がたくさんあったようです。天国屋は他の食堂よりもかなり安く食事を提供したために、他の店の客をとってしまったようです。それが原因で、嫌がらせを受けるようになり、最終的に閉鎖に追い込まれてしまいました。

 この出来事から、賀川先生は単純な救済事業だけでは貧しい人を救うことは難しいと実感され、1917(大正6)年、雇用創出を目的として歯ブラシ工場を開設しました。しかし、スラム街の人は十分な教育を受けておらず、技術もありませんでした。そのため、この工場で作った歯ブラシは品質が悪く、全く売り物になりませんでした。さらに、工員の中には資材を持ち逃げする人も出てきて、翌年には工場を閉鎖することになりました。

 また、賀川先生は無料(または半額)で病人を診察する「友愛救済診療所」も開設しました。この診療所は、のちに協同組合が経営する病院の設立へと繋がりました。

 スラム街の中で貧しい人々と共に生活しておられた賀川先生は、様々な事業を立ち上げ、失敗にもめげず活動を続けられました。しかし、その過程で単なる「救貧」活動だけでは、貧困の根本的な解決には至らないと痛感し、「救貧」から「防貧」へと考え方が変わっていかれました。「防貧」とは、貧困に陥ることを事前に防止することで、アメリカに留学した際、ニューヨークで何万人にもの労働者が権利を勝ち取るためにシュプレヒコールをあげるデモに遭遇し、大きな衝撃を受け、「助け合う能力」の重要性に気づかれたようです。

 その後アメリカから帰国された先生は積極的に労働運動や消費組合運動の先頭に立たれて、庶民の暮らしを守るための「助け合い」の仕組みづくりに従事されました。結果として、全国各地に労働組合や生協、各種の協同組合が結成され、今日の私たち市民生活を守るネットワークになっているのです。キリスト者として布教活動に励むだけでなく、社会事業を通して弱き人、貧しき人の自立を支援され続けました。その意味で、私は本校の創立の精神「平和を守るまことの人を育てる」も、その延長線上にあると考えています。

学校長 武部 公也