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2016年10月31日

アレセイア通信 2016年11月号

創立者の歩みから学ぶ
 
 今年度は本学園が創立70周年を迎え、様々な記念行事が行われます。校名の「平和」が物語るように、平和学園は平和を念願し建てられた学園です。今回も創立者である賀川豊彦先生の足跡をたどり、本学園の存在意義を考えてみたいと思います。
 
 「一枚の最後に残ったこの衣 神のためにはなおぬがんとぞ思う」 私たちの学園の創立者である賀川豊彦先生は、この歌のとおり、神のためとあれば、最後に残った一枚のキモノをも、ぬがれた人でした。ただ、口先だけではなく、実際にそれを実践して来た人です。それですから、第二次大戦後米国のキリスト教界の大立物だったモット博士も「賀川先生ほどキリストを生かしている人は、現代の世界を見渡しても外にない」と言ったのです。
 
 賀川先生は14年間、神戸の貧民窟で愛と奉仕の生活をなさいました。「貧民窟」というのは、貧しい人たちが群居しているところで、中には二畳敷長屋などといって、たたみ二畳に五、六人もの家族が住んでいるのさえありました。賀川先生がその貧民窟に住まわれたのは、21歳の神学校の学生の時でした。三畳敷きの先生の部屋には、不良少年や乞食たちが次々と「先生、泊めておくなはれ」と言って押しかけてくるので、いつも満員だったようです。その頃、世の中は不景気で「貰い子殺し」(事情があって産みの親が育てられない赤ん坊をお金を取って預かりながら、栄養も与えず死なせてしまう)が流行していました。そこで、賀川先生はご自身も餓死一歩手前の赤子を引き取り育てられました。その折、神学校の試験最中で勉強していると、その赤子が泣き出し、どうあやしても泣き止みません。ついには、先生まで悲しくなって涙を流し、二人で泣きながら「涙の二等分」という詩を作られました。また、奥様を迎えられてからは、二人して子どもたちのトラホーム(眼疾)の治療に尽くされました。しかし、そのため二人ともトラホームに感染し、奥様はとうとう片目を失明されてしまいました。このような、血と涙と祈りに明け暮れた先生の貧民窟生活は、小説「死線を越えて」に詳しく出ています。現在、本校の高校1年生の5月に実施する修養会(於:御殿場 東山荘)では、全員でこの小説のビデオを鑑賞し、創立者の足跡を学んでいます。また、この小説の一部は、アメリカの中学校の副読本になった時期もあり、アメリカの青年たちはカガワ先生の名前を知っているようです。ロサンゼルスには「賀川町」という町もあり、ノーベル平和賞の候補に何度もノミネートされた背景になっているようです。
 
 しかし、賀川先生の偉大さは、この貧民窟の働きだけではないのです。先生は生涯を通して「弱い者」「悩める者」の友となり、多様な精神運動や社会運動を指導された点は、さらに偉大です。現在の労働組合、農業協同組合、生活協同組合の「礎」は、殆どが先生の手によるものです。前述したノーベル平和賞ノミネートの大きな要因として、先生が構想された「世界連邦」などは、一貫して世界平和を日本に、世界に訴え続けた「証」(あかし)ではないでしょうか。私たちは、今こそその遺志を受け継ぐ時ではないでしょうか。
 
学校長 武部 公也